切り抜き仕事

「なんで1日8時間も働くの?」 ひろゆき切り抜きニュース

仕事に追われて四六時中働いている人って、「頑張っている」感はあるんですけど、あまりうまくいってる人を見ません。だとしたら、一生懸命の方向性を考え直す必要がありそうです。

日々、楽しく、気の赴くままに暮らしていると言うと、よく「すごい」「なかなかできることじゃない」なんて言われるのですが、それが僕には不思議です。

労働者の時間が最も搾取されていたのは、19世紀半ばごろじゃないかと言われています。産業革命によってさまざまな技術革新が起こり、工場や機械を持つ資本家が労働者を雇い、モノを作って売るという資本主義が生まれて、人間の労働時間は劇的に長くなりました。

一説によれば、1840年ごろのイギリスの労働者は、年に3500時間くらい働いていたらしいですね。これを単純に365日で割ると、土日も含めて1日当たり10時間近くの労働時間ですから、かなりブラックです。この時期をピークとして、さすがに労働者を働かせすぎだということで、その後、1919年に制定されたILO第1号条約により、「8時間労働」が世界に浸透しました。そして、ご存じのとおり8時間労働は現代まで続いているわけですが、それが僕には腑に落ちません。

現代の技術の効率性をもってすれば、昔と同じ仕事量をわずかな時間でこなせるはずです。それなのに、なぜか人類は、1世紀以上前と変わらず1日8時間働いているのです。

僕は、たくさん働きたい人は働けばいいという考えです。ただ、電通などの一般企業や、覚せい剤を使って月300時間の残業を乗り切っていたエリート官僚とかのニュースを見ると、それほど働きたくないのに働かされている人が多いことがわかります。

エリート官僚の彼は、平均しても月150時間の残業をしていたそうなので、単純計算したら年に3800時間くらい働いていたことになります。好きで残業しているわけでもないのに、人類の長時間労働記録を更新しちゃうってどうなの?と思うわけです。

つまり、本当なら大して働かなくても生きられるようになっていてもおかしくないのに、なぜか多くの人がまだまだ労働に追われているのです。僕が気ままに暮らしていることなんかよりも、こっちのほうが、ずっと不思議なことではないでしょうか。

おそらく、生活も仕事も便利で効率的になる一方で、多くの人が必要ないものを買ったり、お金がかかることに楽しみを見いだしたりするようになったため、「もっとお金を稼がなくてはいけない」というループにはまっているのだと思います。

そういう頑張り方も、そろそろやめたほうがいいのではないか。多くの人が、「一生懸命、頑張る」ということの方向性を、実は間違えているように感じます。

一生懸命には頑張っていない僕みたいな人間が、一般的な会社員よりたくさんお金を持っていたりするわけで、ひょっとしたら「頑張る」ということ自体、現代ではあまり必要ないことなんじゃないか、とすら思うのです。

やたらと「仕事時間」を確保したい人たち

より効率的に仕事をこなすには、タクシーに乗って移動時間も仕事時間に変えよう、タクシー代は移動オフィス代なのだ――みたいな話が、ビジネス書によく書いてあります。

それでうまくいっている人もいるだろうから否定はしませんが、僕自身は、あまりタクシーに乗りません。むしろ電車移動のほうが自分に合っていると思います。電車の中は、不特定多数の人が発する情報が、絶えず飛び交っているからです。

電車に乗ると、「以前はスマホでゲームをしている人が多かったけど、今はそうでもないな」「タッチパネル式の自販機が増えてきたのは、スマホの普及で人がようやくタッチパネルに慣れてきたからだろうな」などと気づいたりできます。

加えて、周りで交わされている会話をぼんやり聞いたりできるというのも、僕にとってはメリットです。

改めて考えてみると、電車ほどバリエーション豊かに他人の雑談を聞ける場所は、ほかにないかもしれません。居酒屋だと酔った大人しかいないし、ファミレスだとママ友くらいでしょうか。

その点、電車なら、わざわざ意識しなくても、移動しながら高校生とか大学生の会話が耳に入ってきます。最近、どんな言葉をしゃべって、どんなことを面白いと思っているのかが飛び込んできて、「へえ〜」とか思ったりします。

といっても、有益な情報が聞こえてくることはまれですよ。大抵は、くたびれた大人の愚痴で、「こういうしょうもない愚痴を言っているから、いい年こいてこんな感じなんだろうな」と思うことが多いです。

あとは、僕が苦手な「女子トーク」とかも聞こえてきます。目的もなく、ただ話題が移ろうに任せて話すので「なんなんだ?」とは思いますが、ハタから聞いているぶんには面白いです。自分が参加するのは願い下げですけどね。

まあ、そういうのも含めて、電車移動は、人間観察が趣味の僕にとってひとつのエンタメみたいなものだと思います。

「働けば働くほどエラい」は本当か?

それに、そもそもタクシーに乗ってまで時間を確保しなくても、仕事ってなんとかなるんじゃないでしょうか。

自分の手を動かして物事をプラスにしていくというのは、どちらかというと、見えている結果に向かって「進んでいく」ということだと思うんですが、仕事でいちばん重要な部分は、そこじゃなくて「思いつく」ことです。

つまり、僕がしているのは、「こうしたらうまくいくよね」というアイデアを出すことであって、「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」と作業に追われることではないわけですね。

人間の脳は、あれこれといろんなことに頭を使っていないときのほうが思考しやすくできています。だから、うまくいく方法を思いつくのには、かえって電車移動中とか入浴中とかにボーッと考えるほうが適しているんじゃないでしょうか。

で、うまくいく方法さえ思いつけば、あとは僕が頑張らなくても、人に振ることで勝手に回り始めます。だから僕は、タクシーに乗ってまで仕事時間を確保する必要がないのです。

そもそも、やたらと仕事時間を確保したがる人が、すごくうまくいっているという話を、あまり聞いたことがありません。

「仕事にかける時間は、あればあるほどいい」というのは、要するに、時間を確保するほどに成果が上がるということです。でも、しょせん時間には限りがあるわけだから、その中で得られる成果には限界があります。

本当は、できるだけ時間をかけずに、より多くの成果を上げたほうがいいわけで、時間と成果を比例関係で捉えていること自体が間違っているんじゃないか。僕はそう思いますね。

例えば、僕の会社のプロジェクトで緊急事態が起きたとします。もし僕しか対処できなかったら、すぐに会社に戻って、自分で作業するなり判断するなりしなくてはいけません。当然、時間的コストがかかります。でも、最初から現場の判断で対処できるように仕組みを作っておけば、必要以上に時間をとられずにすむわけです。

大して動いていない僕と、5分おきにスケジュールを入れて動きまくっている人とでは、一見、後者のほうが成果を上げているように見えるかもしれません。

だけど実際のところは、おそらく僕のほうが、ずっと大きな成果を得ているんじゃないかと思います。時間というコストに対する成果の大きさを見れば、僕の考え方のほうが、はるかにコスパがいいはずなのです。

もうひとつ例を挙げると、僕はプログラムを書くことができますが、今は、必要があればプログラマーを雇っています。

プログラミングにはパズル的な一面があって、パズル好きの僕としては、たまにやるぶんには楽しめるのですが、今となってはほかにやることもあるし、すべて自分でやる必要性を感じないのです。

だいたいプログラミングのことはわかっているので「もう、いいかな」という気持ちもあるし、自分が手を動かすよりも人を雇って手を動かしてもらったほうが、結果的にはコスパがいいというのもあります。

損をするなら、そもそもやらなければいい

もちろん人を雇うコストはかかりますが、そのせいで損をするようなプロジェクトなら、最初からやらなければいい話です。

例えば、プログラマーを雇うのに20万円かかるとして、そのお金を惜しんで自分でプログラムを書いたとします。

これだとたしかに20万円は浮きますが、そうしたところで、そもそも20万円程度の売り上げしか見込めないようなプロジェクトだったら、そんなのやる意味なくない?と思うわけです。

人を雇うコストを補って余りある利益が見込めるのなら、人を雇ってでもやるし、その程度の利益も見込めないのなら、自分ひとりでもやらない。

仮に1000万円の売り上げが見込めるプロジェクトだったら、20万円をケチる必要はないわけです。人に20万円払って手を動かしてもらえば、その間に、僕はまた、僕にしか考えられない別のことを考えられます。

つまり、これはコストをかけるかどうかではなく、最初の設計をどうするかという問題なのです。

それが誰にも任せたくないほど楽しくてたまらないことだったら、時間をかけて自分ひとりでやるのもいいと思いますけどね。

ひろゆき切り抜きニュース

低費用で確実な退職代行【退職代行ガーディアン】

人気コンテンツ

-切り抜き仕事