
「努力」属性ではない僕の闘い方
とにかくがむしゃらに頑張るとか、無理をどうにか通そうというのは、そもそも「負け」が確定している中での努力なので、そこは早々に諦めて、さっさと別の勝利条件をそろえたほうがいいんじゃないでしょうか。
僕はそう考えるほうなのですが、自分の能力に自信がある人ほど、とっくに詰んでいる盤面をひっくり返せると思いがちです。
東京オリンピックでも、一時期マラソンのルートに水をまくとか、うちわであおぐとか、付け焼き刃的な案が出されましたが、「そもそも猛暑の東京でマラソンをするのは無理だよね。じゃあ、どこでやろうか」と考えるのが問題解決の近道でしょう。
どうして国際オリンピック委員会の偉い人に言われるまで、札幌開催の話が出なかったのか、僕は不思議でしょうがないのです。
努力を全否定しているのではありません。例えば、営業の仕事をする人の中には、飛び込みで「買ってくれるまで帰りません」と熱烈に売り込むみたいに、努力で売り上げを立てる才能がある人も、一定数いるとは思います。
さらに、負けが確定しているような状況から、力技で形勢逆転できる人もいるでしょう。まさに少年マンガの主人公が、努力に努力を重ねた末に、はるかに格上の敵を打ち負かすみたいなことです。

ただ、そういう努力をする才能が僕にはありません。
「直接戦闘」とか「ど根性」系の能力値は低いと自分でわかっているので、努力して売れる商品じゃなくて、放っておいても売れる商品を作って並べておいたほうがラクじゃないかと考えるほうです。
「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」を作ったときも、そうでした。
ガンガン広告宣伝費をかけて知ってもらおうという意識は全然なくて、「面白ければ自然に人は集まるでしょ」というアイデアで勝負するスタンスだったから、面白いものを作ることに注力しました。
努力属性の人は、たぶん頑張ること自体を楽しめるのだと思います。
自分が動きまくって営業成績の数字が伸びていくことが喜び、みたいなスポーツ的な楽しみが、きっとあるのでしょう。
僕からしたら、時間も体力も使うので「嫌だなぁ」としか思いません。そこは性格によるので、何が正しいという話ではないのですが。
以前、ある人が「仕事で20個くらいキャッチコピーを考えなくてはいけなくて、時間はかかったけれど、なんとか捻り出せました」なんて話していたのを聞いて、驚いたことがあります。
どれだけ自分の才能を信じているんだろう、けっこうムダな時間を使ってるなと思いました。
僕だったら、自分のボキャブラリーが限られていることを前提にして「じゃあ、どうしようか」と考えるでしょう。
例えば、同じ表現しか思い浮かばなかったら、類語辞典で調べて表現のバリエーションを増やすとか、売れているもののキャッチコピーをネットで検索するとか、あらゆる手段を活用して手を抜きます。
自分の能力に自信がある人ほど、自分の頭でなんとかしようとするものです。
でも、実は、自分の頭でなんとかしようとしないほうが、むしろ時間的にも内容的にも、うまくいくことが多い気がします。
自分の能力だけでなんとかしようとするのが、まず基本的に間違っているんじゃないかと思うわけです。
同様に、自分自身のセンスや経験値に頼りすぎるのも危険だと思います。
たとえば、若い女性向け商品の開発会議で「この新商品はピンク色にしたい」とプレゼンするとします。
その場合、「私の経験と直感です」という主観的根拠で主張するのと「原宿の写真をたくさん並べてみたら、ピンク色の洋服を着た女性が一番多かったからです」という客観的根拠で主張するのでは、圧倒的に後者のほうが説得力は強いでしょう。

自分の中にあるセンスや経験だけ持ってきても、他人を説得することはできないのです。
自分の能力に自信がある人ほど、陥りがちなところですね。
人間、努力ではどうにもならない件
ずっと前に『銃・病原菌・鉄』(草思社)という本で読んだのですが、なぜ、数では圧倒的に劣る白人(スペイン人)がインカ帝国を征服できたのかというと、ひと言で言えば、「スペイン人が、東西に長いユーラシア大陸にいたから」だそうです。
ちょっと聞くと、わけがわからないと思いますが、物事って、努力よりも環境や条件の影響が大きいってことです。
インカ帝国は、現在の南アメリカ大陸の北西部に興った国ですが、そのころのアメリカ大陸にはなかった銃や鉄製の武器が、ユーラシア大陸にはあった。だから白人は数で圧倒的に劣っていても勝つことができました。
ただし、それは白人が特別に有能だったからとか、勤勉だったからではありません。
詳しい説明は省きますが、気候差が激しい南北より、東西のほうが人や作物や技術の移動、伝播のスピードが速いため、東西に長いユーラシア大陸では生産性が上がりやすく、そのぶん早く文明が発達したからだそうです。
要するに、白人が銃などの文明の利器によって圧倒的な強さを持てたのは、東西に長いというユーラシア大陸の地理的条件の為せる業だったのです。
努力の差ではなく、地理的条件の違いによってスペックに大差が生まれてしまったため、南北に細長いエリアで発達したインカ文明は敗れた。いくら努力しようと、ユーラシア大陸で発展してきた技術を持つ白人に対して勝ち目はなかったわけです。
こんなふうに、「人間、努力ではどうにもならん」というのは、遺伝子的な違いを見ても同様に感じます。
例えば、100メートル走の勝者にアフリカをルーツに持つ選手が多い理由には、彼らの努力量にも増して、彼らが「遺伝子的に走るのが速い」という要因がありますよね。
言ってしまえば数万年以上前から勝負はついてしまっているわけで、その差を努力で覆そうとしても、ほとんど無理じゃないかと思ってしまうのです。
まあ、僕からすると、100メートル走でコンマ何秒の記録更新とかは本当にどうでもよくて、それ自体、かなり意味のない戦いに見えるのですが。
ともあれ勝負は、環境や遺伝子による違いで決まってしまうことが大半だから、やっぱり人間、努力ではどうにもならんよな、と思うわけです。

優れるよりも、いい波に乗れ
そう考えると、重要なのは個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかではなくて、いかに勝てる波に乗れるかどうかだと思います。
例えば僕は、たまたまプログラミングに出会ったときに、「これは会社に出勤しなくていいタイプの仕事だ」と直感して続けました。結果、今ではだいぶお金が入ってくるようになっています。
でも、もし僕が編み物業界でむちゃくちゃ努力して、「編み物の達人」みたいになっても、今の収入には及ばないでしょう
つまり、僕が現在、たくさんお金を稼げているのは、僕という個人が優秀で努力家だからではなくて、1つ大きな要因として、ITという波に乗ったからにすぎない。個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかは二の次なのです。
もちろん、編み物が大好きで、努力もまったく苦にならなくて、頑張って能力を磨いて食えるようになれれば幸せ、というなら最高ですが、しっかりお金を稼ぎたいのなら、僕だったら編み物は選ばないよね、という話です。
極端な例を出せば、経済的に恵まれている日本に生まれるのと、内戦が絶えない国に生まれるのとでは、人生のスタートラインがまったく違いますよね。
貧しい国に生まれた人は気の毒だし、まず先進国がなんとかすべき悲しい現実ですが、ともかく、個人の努力だけでどうにかしようとすることだけが問題の解決方法じゃないと思うわけです。
でも、最近の日本って、「努力は必ず報われる」とかいうパワーワードに縛られて、努力ではどうにもならん世界で、努力を強いられて苦しい思いをしている人が多い気がします。
いっそ僕みたいに、主人公キャラとしての自分の能力値は見切ったらどうでしょうか。「自分の努力スキル」には頼らないようにしたほうが、だいぶラクに生きられるようになりますよ。