
復讐にも限度! いじめの糾弾は新たないじめを生む
いじめを実行する人にはさまざまな理由があるとは思いますが、嫌がらせなどの悪意から始まるものだけではありません。
正義感に起因するものもあります。 最近では、過去にいじめをしていた小山田圭吾氏が、東京オリンピックに関わったことで問題視され、辞任に追い込まれました。そのとき、世間ではさまざまな声が上がりましたが、以下の意見について、みなさんはどこまで同意できますか?
「いじめは良くない」
「いじめをした人を許すべきではない」
「いじめをした人が公の仕事をするのは良くない」
「いじめをした人が人前に出る仕事をするのは良くない」
「いじめをした人が作品を売るのは良くない」
「いじめをした人の名前が視界に入るのは不快だ」
「いじめをした人は世の中からいなくなればいい」
「いじめをした人の家族が攻撃されるのは仕方ない」
このように「いじめは良くない」の延長線でさまざまな考えが出てくるわけですが、「どこまでの行為が正義として許されるか?」は人によって判断が分かれますし、正義感から始まった行為は、止める人も少ないので、加速しやすいような気がしています。



新たないじめの被害者としての小山田圭吾
いじめが良くないことには同意見ですが、そこからのいじめをなくすつもりで声をあげた正義感からくる小山田バッシングは、
いつの間にか新たないじめを生んだと思うのです。 「いじめは絶対悪で、根絶すべき」という考え方は、裏返すと「いじめをした人をいじめてもいい」という、
いじめの肯定にも使われてしまう論理になります。
人間、いつ自分が弱者になるかはわかりません。今が強者だからと弱者を切っていいと言っていると最終的には自分が弱者側になる可能性もあります。
復讐されるのは当事者のみであるべき
そして、弱者だから強者を攻撃していいという考えは、「被害者は加害者に何をしてもいい」という攻撃の論理に繋がります。
ハンムラビ法典は復讐を認めていますが、目には目まで、歯には歯までの復讐しか認めていません。復讐にも限度があるよ……というのを伝えているのです。
世界のどこかで絶えず起きている戦争も、お互いの正義を振りかざしたことがきっかけで始まるものです。
正義が正しいわけではない
そう考えると、子どもたちには正義を絶対視してはいけないことを、きちんと教えたほうがいいのではないかと思います。
とはいえ、人間以外の知能を持った動物でもいじめが発生することを考えると、いじめの根絶はなかなかできません。
だから、実際は「問題が大きくならないうちにいじめを発見して早期に対処をするべき」ぐらいで収めておくのが現実的なのかもしれませんね。