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優れた作品の作者は人格が優れている必要があるのか
クリエイターは人格も優れていなければいけない――。東京オリンピックの開会式をめぐってはそんな話で盛り上がったのも記憶に新しいと思います。
たしかに、社会的に問題を起こした人の制作物が恥になることはあると思いますが、その質が高ければ、制作者の人格はどうでもいいのが現実です。
例えば、農作物を作る農家の人がどうしようもなく酷い人間だったとしても作物がおいしければ誰が気にするでしょう?何の問題もないと思う人は多いし、高級レストランのシェフが家庭では酷い人間でも料理がおいしければ食べている人は何の問題もありません。
人格的にはかなり微妙だったと言われているモーツァルトも、その優れた楽曲はいまだに世界中で、聴かれています。
モノづくりより、ファンを増やすほうがラクに稼げる
人格がどうであろうと本当に質の高い制作物を生み出せるなら、それを生業にして生活をしていくことができるということですね。
とはいえ、制作物の質で闘うということは、常にいいモノを作り続けなければならないので大変です。だから、多くの人は違う方法を考えるようになります。
シンガー・ソングライターとして売れた人がタレントになって喋るだけでお金がもらえるようになると、いちいち歌を作らなくても稼げます。
ラクに稼ぐことを考えるならば、モノづくりよりも人として好かれてファンが増える構造をつくったほうがいいのです。

優れた「人格者」である必要はない
最近、話題のユーチューバーも、人気のある人全員がめちゃくちゃ質の高い“おもしろ動画”を制作しているかといえば、そんなことはありません。
動画の質はテレビ番組のほうが断然高い。にもかかわらず、テレビよりも質の低い動画を作り出すユーチューバーが見られているのは、ユーチューブを質ではなく、キャラクターで見ているからです。
シンガー・ソングライターがタレントとして生きたほうがラクに稼げるのと同じように、ユーチューブも動画の質で闘い続けるのは難しい。
ならば、人格やキャラクターを売りにしたほうが稼ぐという意味ではよかったりするわけです。
人格を売りにしたほうがいいのは営業マンも同様
これがユーチューバーではなく、営業マンであっても同じです。 自社商品の質で売るよりも人格を売りにしたほうが、「この人と仲がいいから買う」とかがあったりするのでラクです。 日本にはそんなウェット感覚が残り続けるでしょう。
もちろん制作物の質が高いに越したことはないし、本当に世界と闘っていこうと思うのであれば制作物の質を上げていくべきなのですが、日本みたいな島国の場合は商品の質よりも人格で闘ったほうがラクに儲かることも多いのです。
前科があっても、不倫していても好かれる人は好かれる
そんな世界で生きていくために必要な人格ですが、別に優れた「人格者」である必要はないと思っています。 例えば、北野武さんは前科があって自ら不倫話をしているのに人気です。
それは品行方正よりも、キャラクターとして安定していて親近感が持てるかどうかが重要になっているからだと思うのです。
そういった人格者は、子どもの頃から「人を楽しませる」意識を持った人な気がしています。
そして、大人になってからは正直に人に真摯であればいいと。嘘やおべんちゃらを言わない正直な人は、人から好かれますから。